チェット・アトキンス

偉大なミュージシャン、チェット・アトキンスは、2001年6月にその輝かしい人生にピリオドを打ちましたが、彼が生前に残した音楽の遺産は、永遠に残るでしょう。彼はミュージシャン、ソングライター、プロデューサー、レコード会社の運営、そして評価の高いサイドマンであり、ナッシュビルサウンドの礎を築くにあたり、とても重要な人物でした。ナッシュビルサウンドとは、ロックやポップスが主流だった60年代に、フィドルやスティールギターを使用せずに対抗できるような、よりポップなスタイルを目指したものでした。チェット・アトキンスは、長年のキャリアの中で数々の素晴らしい賞も受賞しています。73年、彼は49歳の若さでカントリーミュージックの殿堂入りを果たしました。91年には、ナッシュビルの音楽の中心的な通りであるサウスストリートが、チェット・アトキンス・プレイスに改称され、97年には、ビルボードの最高栄誉であるセンチュリー賞も受賞しました。グラミー賞に於いては、生涯功労賞を含む14個の賞を受賞し、2002年には、サイドマンとしてロックの殿堂入りも果たしたのです。これほどギターという楽器に影響を与えたギタリストはほんの僅かです。実際、Rolling Stone誌が2001年に発表した"100 Greatest Guitars of All Time(史上最も偉大なギター100本)"でも、彼のモデルは21位にランクインしています。音楽一家の4人兄弟の末っ子として生まれた彼は、6歳の時にギターに夢中になり、高校を卒業する頃には、独学で実力をつけていました。ジョージア州に住んでいた15歳の時、シンシナティのラジオ局WLWでマール・トラヴィスの演奏を聞いた彼は、その演奏方法がまったく分からなかったので、親指を含めた4本の指を使ったフィンガーピックングを独自にマスターしました。(実際マール・トラヴィスは親指と人差し指の2本しか使ってなかったことが後でわかりました)彼は、ギターのデザイン自体にも強いこだわりを持っていて、54年にグレッチのセールス担当であったジミー・ウェブスターからのシグネイチャーモデル製作の申入れに喜んで賛同しました。そのギターは、シングルカッタウェイのホローボディモデルで、2基のDeArmond®ピックアップと、彼が提案したサスティン工場のための金属製のナットとブリッジ、そして彼のサインが入ったピックガードを装備しており、ジミーが提案した印象的なオレンジカラーを纏っていました。興味深いのは、当時のグレッチは、彼のことをカントリー&ウエスタンのアーティストとして認識していたので、完成したギターは"Streamliner Special"と呼ばれ、大きなGマークと"ベルトバックル"テイルピース、そしてヘッドストックには牛の角のデザイン、パールブロックのインレイにはウエスタンスタイルの刻印が施されていました。チェット・アトキンスにとって、それらの装飾はどれも魅力的なものではなかったそうです。厳密にいうとこのギターは、グレッチが大成功を収めた"6120"の最初のモデルです。実際、チェット・アトキンスの為に製作された2本目のギターには、"6120"と呼ばれた最初のもので、彼はすぐにBigsby®のブリッジに変更しています。"チェット・アトキンス"の名前を冠したグレッチギターは、ロックンロールの黎明期に存在し、エディ・コクランや、デュアン・エディなどの人気も実力もあるギタリスト達が、そのモデルを愛用していたのです。Chet Atkins Hollow Bodyモデルは、今でもロックンロールやロカビリーの最先端に位置し、そのルックス、サウンド、そして伝統は現在にも受け継がれています。


知っていましたか?

60年代にチェット・アトキンスは、ケネディ大統領とジョンソン大統領のためにホワイトハウスで演奏しています。(この伝統はジョージ・ブッシュの代まで続いたそうです)また、68年RCAレコードカントリー部門の副社長に就任したチェット・アトキンスは、ウェイロン・ジェニングス、ドリー・パートン、ウィリー・ネルソン、コニー・スミス、ボビー・ベア、ジェリー・リード、チャーリー・プライドなどのアーティストと契約をしました。